第90回企画展

【上方浮世絵でみる市川家の役者たち】
第90回企画展 2024年5月28日(火)〜2024年9月1日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は「役者絵」が多く、道頓堀の劇場を中心に上演されていた歌舞伎に出演する役者たちが描かれます。

大阪の浮世絵に描かれる歌舞伎役者たちは、上方を中心に活躍をした役者が多いのですが、江戸で活躍した役者たちも数多く見られます。なかでも七代目市川團十郎をはじめ、江戸歌舞伎界で活躍する役者たちも来阪し、東西交流が盛んに行われていました。また、大阪で活躍しながら七代目團十郎の門下となる初代市川鰕十郎など、上方と江戸の枠を超えた師弟関係もありました。

そこで今回の展示では、大阪で活躍した「市川」を名乗る役者たちを特集します。市川鰕十郎のほか、市川団蔵や市川右団次など、大阪で活躍した市川家の役者たちの姿を、どうぞご覧ください。

春好画 『勝鬨みばえ源氏』
初代市川市紅(五代目市川団蔵)(牛若丸)
二代目嵐吉三郎(熊坂長範)


大阪における市川家とは
江戸歌舞伎の宗家である市川團十郎家を頂点とする市川家は、大阪にもその影響力はおよび、大阪にも團十郎の門下である役者たちがいます。

市川鰕十郎の各代のなかでも初代は、三代目中村歌右衛門の仲立ちで七代目團十郎の門下へ入っています。名実ともに上方随一であった歌右衛門が、師の四代目市川団蔵亡き後、鰕十郎を七代目團十郎門へと紹介したことは、鰕十郎への期待がいかに大きかったかをあらわしています。

市川団蔵は、初代は初代市川團十郎の門人であり、江戸の芝居で活躍します。三代目が長く上方の芝居に出演したことから縁がつながり、四代目と五代目は上方出身者が襲名しました。六代目は七代目團十郎の門下に入ります。

大阪の浮世絵に描かれる市川家の役者たちは、江戸歌舞伎の市川團十郎家とのゆかりを持ち、そのお家芸を受け継ぎながらも、上方歌舞伎界での地位をも築いているといえるでしょう。

二代目市川鰕十郎(1806-1829)
初代市川鰕十郎の子。市川助蔵を名乗り、文化12年(1815)に大阪で初舞台。文化14年に二代目市川市蔵を襲名し、父とともに江戸と上方を行きする。文政10年(1827)に父である初代鰕十郎が亡くなり、文政11年に二代目市川鰕十郎を襲名。しかし、文政12年に病のため死去する。

三代目市川鰕十郎(1787-1836)
中山紋十郎の門人中山甚吉の名ののち、初代市川鰕十郎の門人となり初代市川瀧十郎と改める。文政10年(1827)に初代が、文政12年に二代目が亡くなると、天保元年(1830)に三代目市川鰕十郎を襲名する。天保7年(1836)に没す。

四代目市川鰕十郎(1809-1858)
松島巳之助の名で子役をつとめ、七代目市川團十郎の門人となり市川市十郎と改める。弘化元年(1844)四代目市川鰕十郎を襲名。途中坂東寿太郎と名を改めるも再び市川鰕十郎を名乗った。安政5年(1858)に没す。

二代目市川瀧十郎(生没年不詳)
『古今俳優似顔大全』に「三代目鰕十郎の実子 幼名市川喜代蔵改め鰕三郎 一且初代浅尾与六の養子と成しが不縁して実父の名前をつぐ」とある。二代目市川瀧十郎は六代目市川鰕十郎ともいわれるが、活躍時期が浮世絵と合わない。

四代目市川團蔵(1745-1808)
子役出身で、亀谷虎蔵から初代中村富十郎の門に入り中村虎蔵、のちに三代目市川團蔵の門下となって市川友蔵と改めた。三代目の死後、位牌養子となり三代目市川團三郎を襲名し、その後四代目市川市川團蔵を襲名した。文化5年(1808)9月の舞台中に病気休演し、弟子の初代市川市蔵(初代市川鰕十郎)が代演。翌月の9日に没する。

五代目市川團蔵(1788-1845)
四代目の門下であった初代市川市蔵(初代市川鰕十郎)に入門し市川森之助を名乗る。のちに四代目市川團蔵の養子となり、四代目市川團三郎を襲名。江戸へ下っていた最中、養父四代目が没。江戸より大阪へ戻り好評を得て、初代市川市紅と改名。文政2年(1819)に五代目市川団蔵を襲名。弘化元年(1844)より病気となり、翌年に没する。

六代目市川團蔵(1800-1871)
四代目團蔵の門人であった初代市川荒五郎の子で、江戸で初舞台を踏む。七代目市川團十郎の門人となり、市川三蔵と改める。その後、市川茂々太郎・市川白蔵と改名。天保5年(1834)二代目市川九蔵を襲名。嘉永5年(1852)、五代目の死後の位牌養子となり、六代目市川團蔵を襲名。明治4年(1871)10月没。

二代目市川市紅(生没年不詳)
三代目市川鰕十郎の門人で、天保期に市川森之助の名で活躍。五代目市川団蔵の養子となり、その後二代目市川市紅を襲名し、嘉永三年(1850)年八月に初代市川当升に改める。

初代市川右團次(1843-1916)
四代目市川小團次の子で、道頓堀の芝居茶屋に奉公するも、役者へ転向。嘉永5年(1852)より市川福太郎の名で大阪や京都の舞台を踏む。文久2年(1862)に父に呼ばれ江戸森田座で共演するが、すぐに上方へもどり、初代市川右團次を襲名。三代目市川市蔵や二代目尾上多見蔵らに引き立てられ、上方歌舞伎界を牽引。初代実川延若・中村宗十郎とともに一翼を担った。明治42年(1909)、長男が二代目市川右團次を襲名し、初代は市川斎入と改める。大正4年(1915)引退した。


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