第58回企画展

【二代目尾上多見蔵】
2015年12月8日(火)〜2016年3月6日(日)

大阪の歌舞伎芝居は、道頓堀の中座や角座をはじめとする大劇場で上演されただけでなく、宮地芝居とよばれる神社の境内で行われるものもありました。これらの芝居に出演する役者も、人気と実力によって出世していくことができました。
 そこで、今回の展示では二代目尾上多見蔵を特集します。多見蔵は、子供芝居や宮地芝居に出演し、後に三代目中村歌右衛門や三代目尾上菊五郎に見いだされ、歌舞伎界を代表する役者へと出世していきます。浮世絵に描かれた姿から、次第に貫禄がでていく様子にもぜひご注目ください。
OnoeTamizo宗広画 二代目尾上多見蔵〔石川五右衛門〕


二代目尾上多見蔵とは
寛政12年(1800)、京都にて床山の亀右衛門の子に生まれ、文化(1804〜1817)の中頃は、瀬川和市の名で子役として活躍、のちに三代目中村歌右衛門の門下となり姓を中村にあらためます。

文政3年(1820)、三代目尾上菊五郎の門下となり、江戸の歌舞伎芝居に出演の際、二代目尾上多見蔵を名乗ります。

文政6年には大阪へもどり、竹田や大西などの“中芝居”にて人気を得て、また歌右衛門と“大芝居”で共演するなど、次第に役者としての評価を上げていきます。天保12年(1841)および弘化3年(1846)には、ふたたび江戸へくだり、中村座などに出演。東西の歌舞伎界の重鎮となっていきます。

明治期も活躍を続けますが、明治18年(1885)11月中座の舞台を最後に、翌明治19年3月2日、長い役者人生の幕をおろしました。

三代目中村歌右衛門と三代目尾上菊五郎
三代目中村歌右衛門は、江戸時代後半の大阪歌舞伎界の頂点に立つ役者です。歌右衛門は人気も高く、浮世絵にも多く描かれました。歌右衛門は容姿にめぐまれなかったものの、多彩な演技力から“兼ル役者”と称されます。

三代目尾上菊五郎は、江戸の歌舞伎界を代表する役者であり、大阪の舞台へも度々出演していました。多見蔵が菊五郎門下となったのも、堺の芝居での同座が縁といわれています。菊五郎も立役から女方までの広い芸域から“兼ル役者”と称されました。

多見蔵も豊富な役柄をつとめ、後に“兼ル役者”と評価されています。歌右衛門と菊五郎との出会いは、多見蔵の演技に多大な影響を与えたといえます。

浮世絵に描かれた姿
大阪の浮世絵は、江戸のものにくらべて、役者たちの顔の描き分けがわかりやすいといわれています。

文政から天保頃(約1820年〜1840年)の多見蔵は、切れ長の目に面長のすっきりとした顔立ちの美形に描かれています。むきだしになった足はひきしまり、軽快な動きを想像させます。

しかし、年を経るにつれ次第に貫禄がつき、頬がふくらんで丸々とし、体型は肉付きがよくなり、あきらかに体が重くなっている様子に描かれています。

役者として長寿であっただけでなく、大阪の浮世絵においても長く描かれた多見蔵の姿の変遷にもご注目ください。

多見蔵の門人たち
多見蔵は初代市川鰕十郎の娘を妻に三男一女をもうけ、長男二代目尾上和市(松鶴・松光)と次男三代目市川市蔵は役者の道へと進みましたが、いずれも若くして亡くなります。多見蔵の没後、門人が三代目を継いだものの、その名は途切れてしまっています。

多見蔵は、師の三代目尾上菊五郎の怪談物や早がわりの芸を受け継ぎ、得意としました。その流れは、初代市川右団次らに引き継がれていきます。

また多見蔵門には、尾上松緑(歴代には数えず)がおり、浮世絵にその姿を見ることができます。