上方浮世絵館 周辺芝居MAP

江戸時代〜の上方浮世絵館 周辺のご紹介

江戸時代、天下の台所だった大坂の中心地であった道頓堀は、歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋が立ち並び、ブロードウェイをもしのぐと言われるほどの世界屈指の歓楽街でした。
現代とはまた違った華やかさであったであろう当時に想いを馳せながら、当館周辺の劇場や芝居に関する歴史をご紹介します。


法善寺
江戸時代に創建され、千日参りをしていた事から「千日寺」とも呼ばれた。
千日前の地名の由来にもなっている。
水掛不動には願いを込めて水をかける人が跡を絶たない。
奉納の石柱には、水谷八重子や嵐吉三郎の名も見える。

法善寺横丁看板
「法善寺横丁」の文字は、西側は藤山寛美・東側は三代目桂春団治による揮毫。
藤山寛美の「善」は、横画が足りない。
「芸人は一本足らんぐらいがええねん」と答えたとか。

法善寺横丁
おもろい噺 五拾銭也
横丁には落語席「紅梅亭」「花月亭」があった。
初代桂春団治や初代桂文枝などが活躍。
[喜川]の前には句碑。

「行き暮れて ここが思案の 善哉かな」
小説『夫婦善哉』の作者として有名な織田作之助の句碑。
今も残る[夫婦善哉]は、元は横丁にあった。


筑後(大西)(旧浪花座) 竹本座跡碑
貞享元年(1684)竹本義太夫が設立した竹本座は、人形浄瑠璃の芝居を行う。
宝永2年(1705)には、竹田出雲を座本に座付作者に近松門左衛門を迎え繁栄。
明和4年(1767)に、道頓堀より退転。


松竹座 大阪の凱旋門
パリの凱旋門をまねた松竹座は、大正12年に完成。道頓堀の芝居を唯一守る。


食満南北句碑
食満南北は初代中村鴈治郎専属の脚本家として活躍。
「盛り場をむかしに もどす はしひとつ」
上方浮世絵館には松王・梅王・桜丸の絵に「甘党は 梅におくれし 松王や 桜にわたる 色もようかん」の額が。


「頬かむりの中に 日本一の顔」
『河庄』の紙屋治兵衛を当たり役とした
初代中村鴈治郎の姿を詠んだ岸本水府の川柳。



道頓堀川
道頓堀 船乗り込み
役者が道頓堀を船で芝居小屋へ乗り込む行事。
顔見世の際、あいさつの意味を込めて行われた。現在は、毎年7月の松竹座歌舞伎公演に合わせ、昭和54年より復活して行われている。

三津寺墓地
三勝半七
元禄(1600年代末)頃に大坂でおきた心中を元にした芝居。
“今ごろは半七っあん、どこにどうしてござろうやら”というお園の有名なくどきが、天保(1830年)頃に流行。
三津寺墓地に、二人の墓が建立されている。