第85回企画展

【大阪の役者絵 中判へのいざない】
第85回企画展 2023年2月28日(火)〜5月28日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、道頓堀で上演される芝居を描いた役者絵が多く、当時の歌舞伎舞台を今に見ることができます。

大阪の役者絵は、江戸時代の後半である19世紀がおもな制作時期です。文化文政期(1804−30)から天保期(1830−44)にかけて、大判という判型を主流として隆盛しますが、天保の改革によって途絶えます。その後、弘化期(1844−48)以降再登場する際には中判という判型が主流となりました。

そこで今回の展示では、この大阪の役者絵に特徴的な大きさである中判という判型に注目します。それまでの主流であった大判にくらべ、中判は約半分の大きさとなりますが、異なる魅力が発揮されます。また、広貞や芳瀧ら大阪の浮世絵師は、その画面を最大限に活かしました。大阪独特の中判の世界をどうぞお楽しみください。

広貞 画
「勢州阿漕浦」
嘉永4年(1851)10月 筑後芝居


大判と中判
浮世絵の大きさは大判と呼ばれる大きさが多く、葛飾北斎の「富嶽三十六景」なども大判です。寸法は約39センチ×約26.5センチで、現代の用紙サイズにするとB4より少し大きいぐらいです。役者絵では、この大判を縦長に使用したものが多く、2枚3枚と続き物になると、あたかも舞台が眼前に広がるような構成になります。大判の役者絵では、背景となる舞台の大道具や小道具も描きこまれ、役者を中心としてダイナミックに舞台の様子が表現されています。

対して、天保の改革以後に主流となる中判は、大判を半分にした寸法約26.5センチ×約19.5センチで、現代の用紙サイズにするとA4より少し小さいぐらいです。中判の役者絵では画面が小さくなるので、大判のように横につなげても高さが短くなります。そのため、中判の背景には遠景を配置して奥行きを表現し、画面の小ささを逆手に取った広がりが望めるような工夫がされています。

ここでは、大判と中判に描かれたそれぞれの同じ演目を展示しています。大阪独特の中判の世界と大判の違いを、どうぞ見比べてみてください。

天保の改革と広貞の登場

天保の改革とは、天保期(1830−44)に老中水野忠邦が行った幕政改革です。天保12年(1841)ごろからはじまり、庶民には倹約・風俗粛正を旨とする禁令が出され、歌舞伎芝居や役者たちには規制がかけられ、役者絵も禁止されました。

しかし、水野が退陣した後、弘化4年(1848)ごろから、大阪では徐々に役者絵が戻りはじめます。その際には「忠孝」と銘うち、役者絵ではないとカモフラージュした大首絵が出されます。それらを多く描いたのが広貞でした。大首絵からはじまった広貞の作品は、嘉永期(1848-54)には舞台上の様子も描かれるようになります。中判にもかかわらず、役者たちの姿が画面の小ささを感じさせず生き生きと描かれています。

広貞の作品には大判もみられ(別図参照)、天満屋喜兵衛という改革以前の版元から出版されています。このような例から、中判という判型は版権の関わりなどによって、登場したのではと考えられています。

芳瀧の活躍と役者絵の終焉
広貞の活躍の後、上方役者絵の世界を席巻していくのは、芳瀧です。上方の浮世絵師歌川芳梅に入門した芳瀧は、安政期(1855−60)ごろより作品が登場します。当初は役者の手足の描き方にぎこちなさが感じられますが、すぐにたっぷりとした衣装に役者たちの肢体をしなやかな様子に描く、芳瀧の持ち味が引き出されています。

また芳瀧の作品の、背景に遠景を大胆に配置したものや、逆に背景を廃し縞や源氏香の文様をカラフルに配したもの、縦長に3枚続けたものなどには、多作の芳瀧が中判にほどこした工夫を感じさせます。

しかしながら、明治期になると次第に浮世絵制作は衰退し、芳瀧は京都へ移住します。明治23年(1890)入門の弟子川崎巨泉(きょせん)によると、芳瀧は「明治一三年、劇に関する依頼画一切を退け、大阪から京都へ移住した」と記録されています。次第に少なくなっていく需要に見切りをつけていたのかもしれません。

役者絵以外の中判
大阪の浮世絵は役者絵が多いものの、美人画や風景画も作られています。展示している「都百景」のほか「浪花百景」など、大阪でも歌川広重の「名所江戸百景」に影響を受けた風景画のシリーズが出されました。しかし「名所江戸百景」は大判ですが、「浪花百景」は中判で版行されました。中判の判型は、大阪の浮世絵界に深く受け入れられていったといえます。


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