第84回企画展

【浪花道頓堀の役者たち】
第84回企画展 2022年11月29日(火)〜2023年2月26日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、道頓堀で上演される歌舞伎芝居を描いた役者絵が多く、役者たちが演じるさまざまな役柄や舞台の様子を見ることができます。
まずは大判三枚続きとなっている浮世絵をご覧ください。

浪花道頓堀大歌舞妓舞台惣稽古之図

寿好堂よし国 画
『浪花道頓堀大歌舞妓舞台惣稽古之図』
文政5年(1822)11月頃


ここに描かれる役者たちは、上方浮世絵の制作が最盛を迎えていた頃に道頓堀大歌舞伎の舞台で活躍しており、まさに当時の人気役者を集めた夢の舞台に向け総稽古をしている図となっています。

今回の展示では、この図に描かれる役者たちを紹介し、当時の道頓堀の舞台がどのような役者たちによって盛り上げられていたかに注目します。舞台に立つ表の姿だけでなく、描かれる稽古姿には人気スターの素顔がみえます。それぞれの役者たちの関係や共演する浮世絵を、ファン目線でぜひお楽しみください。


『浪花道頓堀大歌舞妓舞台惣稽古之図』

寿好堂よし国による大判3枚続きの中に、当時の人気役者たちが揃って15名描かれている。なかでも中央に位置する七代目片岡仁左衛門と三代目中村歌右衛門は、当時の役者の位で最高の評判を示す「極上上吉」に位置付けられている。まさに浪花道頓堀歌舞伎界さながら、中心に描かれている。

また火鉢のそばには、文政4年に没した初代嵐橘三郎(二代目吉三郎)からその名を継いだばかりの二代目嵐橘三郎の姿が描かれている。二代目橘三郎は先代だけでなく歌右衛門の芸をも真似たと伝わり、歌右衛門らの稽古を熱心に見つめる姿となっている。

他にも初代浅尾工左衛門や二代目大谷友右衛門ら敵役を得意とする役者たちが脇を固めている。さらに、若女方として高く位置付けられている四代目嵐小六・二代目嵐富三郎・初代中村歌六らも描かれている。しかし、当時女方の一番であった三代目中村松江の姿が見当たらない。松江は文政5年から6年にかけて江戸の中村座へ出演しており、浮世絵と同様に道頓堀には不在であったのである。

画題横に「此外芝居表の景気楽屋之体いつれも近々出板仕候間御求御覧被下候」とあるが、この役者たちが全員そろった舞台はなく、いわば人気役者の豪華共演を夢みた「見立(みたて)」と呼ばれる趣向である。

本図に登場する役者たちが舞台に立ち、それぞれの共演する姿を浮世絵でご覧ください。

四代目嵐小六 Arashi Koroku Ⅳ 1783-1826
初代嵐雛助(三代目小六)の子で、兄弟に二代目雛助や三代目雛助がいる。享和元年(1801)に叶みんしと名乗り、初代橘三郎の相手役をよくした。文化14年(1817)に嵐小六を襲名。

初代浅尾工左衛門 Asao Kuzaemon Ⅰ 1758-1824
竹田子供芝居から舞台に立ち、寛政6年(1794)初代浅尾為十郎に入門し、浅尾工左衛門と名乗る。初代橘三郎や三代目歌右衛門らの脇役をつとめ、実直な老人役に適したとされる。浅尾額十郎は弟子。

三代目嵐吉三郎 Arashi Kichisaburo Ⅲ 1810-1864
嵐猪三郎の子で、二代目嵐吉三郎(初代橘三郎)の甥。文政4年(1821)に三代目吉三郎を襲名。稽古之図では数えで13歳ごろであり、まだ前髪のある少年姿に描かれている。

初代浅尾額十郎 Asao Gakujuro Ⅰ 1782-1835
初代浅尾工左衛門に入門し、浅尾八百蔵を名乗る。一時期二代目中村仲蔵の門下となり姓を中村とするが、文化6年(1809)には浅尾勇治郎と改め、文政5年(1822)に三代目中村歌右衛門に勧められ額十郎へ改名した。

初代市川鰕十郎 Ichikawa Ebijuro Ⅰ 1777-1827
市川市蔵の名で役者修行ののち、三代目中村歌右衛門の紹介により七代目市川團十郎の門下となり、鰕十郎を襲名。襲名後は道頓堀を中心として活躍し、歌右衛門の敵役などをよくつとめた。

七代目片岡仁左衛門 Kataoka Nizaemon Ⅶ 1755-1837
初代浅尾国五郎の弟。初代浅尾為十郎に入門し、二代目国五郎として道頓堀で活躍。天明7年(1787)、片岡家を再興し七代目仁左衛門を襲名。上方歌舞伎界の重鎮として活躍した。

嵐團八 Arashi Danpachi ?-1847
経歴不明。文化14 年(1817)中の芝居「名作切篭曙」では二代目嵐吉三郎と、文政3年(1820)「菊月入船噺」では三代目尾上菊五郎・四代目嵐小六らと共に浮世絵に描かれている。

三代目中村歌右衛門 Nakamura Utaemon Ⅲ 1778-1838
初代歌右衛門の実子。寛政3年(1791)に三代目中村歌右衛門を襲名。文化文政期(1804-1830)の大阪歌舞伎界の名優。二枚目で知られた二代目嵐吉三郎(初代橘三郎)と人気を二分し、江戸では三代目坂東三津五郎らと変化舞踊を競うなど、大阪だけにとどまらない人気があった。

三代目桐山紋治 Kiriyama Monji Ⅲ 不明
詳しい経歴は不詳ながら、文化14年(1817)〜15年には江戸の都座、文政3年(1820)〜6年では角座や中座で上演された役者絵に登場している。その際には、大阪では三代目中村歌右衛門や、江戸では三代目尾上菊五郎らの脇を固め、半道化方などを演じる役者であったと考えられる。

初代中村歌六 Nakamura Karoku Ⅰ 1779-1859
三代目中村歌右衛門の門人となり中村もしほの名で修行ののち、文化元年(1804)中村歌六と改める。傾城役などを得意とする女方で、子には二代目坂東しうかや三代目歌六、三代目嵐吉三郎の妻や八代目片岡仁左衛門の妻となる娘たちなど、子沢山であったと伝わる。

二代目嵐橘三郎 Arashi Kitsusaburo Ⅱ 1788-1837
初代嵐橘三郎の長男猪三郎に入門し、徳三郎の名で活躍。初代の一周忌にあたる文政5年(1822)に二代目橘三郎を襲名。三代目嵐吉三郎は、二代目橘三郎にとって師の実子。「目徳」とあだ名されるほど、その目に特徴があったと伝わる。

百村鹿藏 Hyakumura Shikazo 不明
経歴不明。中ウ芝居(大芝居と子供芝居の中間に位置する芝居)に百村百太郎という人気役者がおり、文政6年(1822)に没している。この子役と百太郎との関係も不明。

二代目大谷友右衛門 Otani Tomoemon Ⅱ 1769-1830
谷村楯八の門人谷村虎蔵として、竹田芝居などでの修行ののち江戸へ下る。寛政7年(1795)に大谷家を継いで友右衛門を襲名。初代は天明元年(1781)に没しており、その跡を受け継ぎ、二代目は江戸と上方を行き来した。

二代目嵐富三郎 Arashi Tomisaburo Ⅱ 1791-1830
三代目嵐三五郎の門人となり、二代目嵐富之助の名で活躍ののち、嵐登美三郎と改める。文化4年(1807)には二代目嵐富三郎とし、若女方として上方と江戸でもその美貌が人気であった。

三代目小川吉太郎 Ogawa Kichitaro Ⅲ 1785-1851
三代目中村歌右衛門の門人として、中村元三郎を名乗っていたが、文化2年(1805)小川吉太郎の名を継ぎ、三代目を襲名。歌右衛門の巡業に同道するなど、上方以外の舞台でも活躍。「やつし方」(卑しい身分へと零落している役柄)と得意とし、おっとりとした顔立ちに描かれている。


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