第80回企画展

【大阪芝居地図めぐり】
2021年11月30日(火)〜2022年2月27日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で作られた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は歌舞伎役者を描く役者絵が多く、当時の舞台の様子をみることができます。

大阪の歌舞伎芝居は、「大芝居」と呼ばれる道頓堀の中座や角座を中心に上演され、役者絵にはこの「大芝居」の役者たちが多く描かれました。また、大阪には「中芝居」や「濱芝居」とよばれる「大芝居」以外の劇場もあり、それらは北新地や堀江など道頓堀ではない地でも興行を行い、安価で気軽な娯楽として栄えました。「中芝居」の舞台も役者絵となり、その人気の高さがうかがえます。

そこで今回の展示では、大阪にあった劇場に注目します。道頓堀の芝居のほか、御霊神社や天満天神の境内で行われた芝居など、大阪の劇場をめぐります。それぞれの劇場で大当たりした芝居を、ぜひお楽しみください。

春要 画『世話料理八百屋献立』
四代目嵐小六(女房ちよ)
文政5年(1822)御霊芝居


中の芝居(中座)
道頓堀の芝居に名代(興行権)が制定された1652年(承応元年)、塩屋九郎右衛門芝居に始まる。1661年(寛文元年)に現在の位置に劇場を開いたといわれる。大西芝居と角の芝居にはさまれた中にあったため「中の芝居」とよばれる。角座とともに、道頓堀の「大芝居」をになう劇場として栄えた。二代目嵐橘三郎や二代目実川額十郎の襲名は中の芝居で行われ、その舞台を浮世絵にみることができる。1999年(平成11年)の閉場まで、現役の劇場として歌舞伎をはじめ松竹新喜劇などが上演された。

角の芝居(角座)
道頓堀の芝居に名代(興行権)が制定された1652年(承応元年)、大坂太左衛門芝居に始まる。1669年(寛文9年)に、官許の印である櫓をあげたとされる。太左衛門橋を南へ渡った角にあったことから「角の芝居」とよばれた。回り舞台のしかけで大当たりをだしたり、シーボルトが見物に立ち寄るなど、中の芝居とともに道頓堀を代表する劇場である。人気を二分するライバル同士であった初代嵐璃寛と三代目中村歌右衛門の共演は角の芝居で行われるはずであったが、璃寛の急死により幻となった。空襲により焼失後も再建されるが、1986年からは映画館となり、2007年閉館した。

筑後芝居(浪花座)
1684年(貞享元年)、人形浄瑠璃の劇場竹本座として竹本義太夫によって設立。近松門左衛門を座付作者として、『国性爺合戦』や『曽根崎心中』などが上演される。また人形浄瑠璃芝居の人気を豊竹座と競うことで繁栄した。しかし、次第に人気が歌舞伎へ移り、1767年(明和4年)には退転。歌舞伎の劇場へとなっていった。道頓堀の最西に位置したことから、大西芝居とも呼ばれる。1876年(明治9年)火事により焼失し、その後「戎座」として再建され、のちに「浪花座」なる。2002年(平成14年)閉館。

竹田芝居
1662年(寛文2年)からくり師の竹田近江が「からくり芝居」をはじめたことにはじまる劇場。『摂津名所図会』にはオランダ人がからくりを見物している様子が挿絵に描かれている。明治以降は「弁天座」となる。大正期には新国劇を上演、のちに道頓堀文楽座として文楽の本拠地となっていたが、1984年(昭和59年)国立文楽劇場の開場とともに閉館。

若大夫芝居(阪恵座)
1703年(元禄16年)、竹本座を創始した竹本義太夫の弟子、竹本采女が豊竹若大夫と改名して開場した豊竹座に始まる劇場。竹本座と人気を競い人形浄瑠璃の全盛期を築くも、1765年(明和2年)若太夫の死により閉座。その後、「若大夫芝居」として歌舞伎を上演する劇場となる。1876年(明治9年)に焼失し、「阪恵座」として再建されるが、翌年またしても焼失し閉館。

中芝居(ちゅうしばい)
「中芝居」とは、角の芝居や中の芝居が「大芝居」とよばれる格式のある芝居に対し、子供中心の「子供芝居」と「大芝居」の間に位置する芝居を指す。「中芝居」は「濱芝居」とも呼ばれ、看板や客席は「大芝居」よりが規制が多かったが、その代わり入場料なども安く、気軽な劇場として人気を得た。

江戸時代の芝居見物指南書である『劇場漫録』(1825年・文政12年)において、大阪の劇場は、道頓堀に大芝居三軒大西・中の芝居・角の芝居と濱芝居三軒角丸・竹田・若大夫。北新地と堀江市の側は時により大芝居あるいは濱芝居となり、阿弥陀池・坐摩・御霊・稲荷・安治川等に中芝居と子供芝居あり。天満には芝居のある時もありまた無き時もありと記されている。

もともと「中芝居」の役者は、人気実力を得て「大芝居」へと出世していったが、上方浮世絵の時代においてはその境界が曖昧となり、「大芝居」の役者が「中芝居」に出演することもあった。「中芝居」の舞台や役者も浮世絵となり、大当りの文字が入っている図もあり、人気をあらわしている。

中村座
江戸の歌舞伎を上演する劇場を「江戸三座」と呼び、「中村座」・「市村座」・「森田座」が興行を公許されていた。中村座は堺町(現在の日本橋人形町3丁目付近)、市村座は葺屋町、森田座は木挽町にあったが、天保12年(1841)から13年にかけて浅草寺の東北東(聖天町)に集められ「猿若町」と呼ばれた。

中村座には大阪の役者である中村歌右衛門も出演しており、また二代目嵐橘三郎を襲名するために帰阪する嵐徳三郎の口上も行われている。