【上方浮世絵でみる三代目尾上菊五郎】
第94回企画展 2025年6月3日(火)〜2025年8月31日(日)
上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、おもに道頓堀で上演されていた歌舞伎に出演する役者たちを描いたものが多く、舞台の様子や役を演じる姿を見ることができます。
道頓堀の歌舞伎には、上方を拠点として活躍する役者が出演しましたが、江戸の人気役者が出演することも少なくありません。その中の一人が「三代目尾上菊五郎」です。三代目菊五郎は、文化文政期(1804-30)の歌舞伎界を代表する役者であり、現代においても怪談物として有名な『東海道四谷怪談』は、三代目菊五郎のために書き下ろされた作品です。
三代目尾上菊五郎は道頓堀へは何度も登場し、上方浮世絵にも多く描かれています。鏡に写る姿をみて「なぜ自分はこんなにいい男なのだろう」と自画自賛したという逸話があるほど、容姿に優れた役者だったといわれます。大阪の浮世絵は江戸のものに比べ、役者をありのままに描くと評されます。ぜひその姿を浮世絵でご覧ください。

北晴 画
「いろは仮名四谷怪談」
三代目尾上菊五郎(佐藤与茂七)
三代目尾上菊五郎と上方
江戸の人気役者であった三代目尾上菊五郎(1784-1849)は、享和三年(1803)・文政三年(1820)・文政八年(1825)・天保元年(1830)・天保十二年(1841)・嘉永元年(1848)と何度も来阪し、上方の観客を楽しませました。とくに文政8年から翌年までの在阪期間には、『いろは仮名四谷怪談』や『菅原伝授手習鑑』の舞台をつとめ、その姿は多くの上方浮世絵となって残っています。
なかでも、文政8年に江戸で初演された『東海道四谷怪談』は、大入りの人気芝居となり、怪談狂言は菊五郎の代名詞となりました。翌年の大阪では『いろは仮名四谷怪談』の外題で上演されます。展示中の佐藤与茂七を演じる菊五郎の浮世絵では、背景の屏風に「大當」の文字が見え、大阪においても人気芝居となっていたことがうかがえます。
嘉永元年に来阪した際には、大川橋蔵の名で舞台に登場しましたが、病を得て江戸へ戻る途中、亡くなりました。
三代目尾上菊五郎とは
三代目尾上菊五郎は、天明四年(1784)建具屋の子として生まれます。初代尾上菊五郎の門人であった初代尾上松助(初代尾上松緑)の養子となり、天明八年に初代尾上栄三郎として初舞台。文化六年(1809)十一月、初代松助が初代松緑と名を改める際に二代目松助となります。文化十一年(1814)十一月に初代菊五郎の俳名を継ぎ三代目尾上梅幸、翌年には三代目尾上菊五郎を襲名します。一世一代と称して舞台を退くも、晩年には初代大川橋蔵の名で復帰し、嘉永二年(1849)四月二十四日、上方から江戸へ戻る途中に掛川で病死しました。
文化文政期(1804-30)の江戸の歌舞伎界は、七代目市川團十郎をはじめ人気役者がひしめく黄金時代でした。そのなかで、三代目菊五郎は、生世話物と呼ばれる庶民の生活を写実に描く演技に通じ、早替わりや仕掛け物を得意とし、立役から女方までさまざまな役を演じ分けられる役者であったと伝わります。
江戸の浮世絵師豊国によって描かれる菊五郎は、面長のすっきりとした輪郭に目鼻立ちが整った端正な様子で、女形を演じても美しかったと思われます。上方の浮世絵師たちの描く菊五郎とも、ぜひ比較してみてください。
三代目以降の菊五郎たち
三代目尾上菊五郎の長男は三代目尾上松助(展示中の『菅原伝授手習鑑』かりやひめ)、次男は四代目尾上榮三郎となるも、夭折したと伝わります。四代目尾上菊五郎は、三代目の長女の娘婿となり、その養子は初代実川延若として上方で活躍します。次女は十二代目市村羽左衛門に嫁し、その子は十三代目市村羽左衛門となり、のちに五代目尾上菊五郎を襲名します。