【上方浮世絵でみる七代目市川團十郎】
第87回企画展 2023年8月29日(火)〜11月26日(日)
上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、主に道頓堀の劇場で上演される歌舞伎芝居を描いたもので、役者絵がほとんどを占めています。
道頓堀の歌舞伎芝居では、上方を拠点とする役者たちが出演していましたが、江戸の人気役者が登場することも少なくありませんでした。なかでも江戸歌舞伎の屈指の名跡にして名優として知られる七代目市川團十郎もその一人で、大阪の浮世絵師たちにその姿が描かれています。七代目團十郎が選定した「歌舞伎十八番」にもあります『助六』は、道頓堀でも上演され、役者絵に描かれた姿は迫力の舞台を彷彿とさせます。
そこで今回の展示では、七代目市川團十郎に注目します。長男に八代目を継がせた後の五代目海老蔵時代をはじめ、大阪で活躍した弟子の初代市川蝦十郎など、七代目市川團十郎と大阪の関係を、浮世絵でどうぞご覧ください。
七代目市川團十郎の大阪での活躍
市川團十郎とは、江戸歌舞伎の宗家として代々続く名跡で、現在も十三代目の襲名が2022年に行われました。七代目團十郎は、小柄ながら眼光鋭く、お家芸の荒事だけでなく、さまざまな役柄をよくし、晩年には「大極大上々吉」の高い評価を得た名優です。
その名優は、江戸の劇場だけでなく日本各地へと、巡業に旅立っています。特に江戸追放の折には大阪に居を構え、道頓堀の舞台を賑わせました。文政12年(1829)の江戸の三座が類焼の際、河原崎座に出演していた團十郎は、成田山や善光寺・高野山を参詣したのち、5月に大阪の中の芝居に二代目市川白猿として登場。翌年の角の芝居の『助六』に出演後、京都や伊勢を巡業し、江戸へ戻ります。天保5年5月にも出演中の市村座が類焼し巡業へ出発。大阪の角の芝居へ出演した後には、中国・九州方面へ向かっています。
また、天保の改革により江戸追放の刑に処された際は、天保14年(1843)より大阪に居を構え、大阪や京都の劇場へ出演。嘉永3年(1850)に、赦免を受けて江戸へもどりました。大阪の浮世絵師広貞によって大きな目を鋭く描かれた五代目海老蔵の姿は、この時期にあたります。
嘉永6年(1853)より、大阪角の芝居を皮切りに京都や名古屋へ巡業。嘉永7年7月28日には、大阪に向かい道頓堀へ入る際には、賑々しく船乗り込みが行われている様子を浮世絵で見ることができます(三階に展示中)。
七代目市川團十郎とは
寛政3年(1791)、五代目市川團十郎の次女すみの子として生まれ、寛政6年(1794)8月、新之助の名で初舞台を踏みます。寛政11年(1799)5月に、五代目團十郎の子であった六代目團十郎が22歳で急逝。翌年11月に、わずか10歳で七代目團十郎を襲名しました。文化3年(1806)には祖父の五代目團十郎が死去しますが、『助六』などの大役を次々と演じ、座頭を務め、評判記の「上々吉」位に進むなど、人気と実力が確立していきます。
展示します歌川豊国が描く文化期の七代目團十郎は二十代と若く、すっきりとした容姿に力強い表情は、人気実力共に高く評価されている充実感にあふれており、荒事だけでなく、悪役や女方など幅広い役柄を演じる広い芸域が発揮された時期でもあります。
天保3年(1832)、長男が八代目を襲名し、七代目は五代目海老蔵と改名。健脚な七代目は、大阪だけでなく堺や京都をはじめ、名古屋や伊勢だけでなく、さらに西の宮島や博多や長崎などへも出演しています。大阪での活躍は、二階の展示をご覧ください。
嘉永7年(1854)に八代目團十郎が自殺、翌年には四男の初代市川猿蔵が病死と、悲劇に見舞われますが、五男がのちに九代目團十郎を襲名しました。安政6年(1859)1月中村座の舞台で発病し、同年3月23日69歳で死去。七代目は歌舞伎十八番を選定したことでも知られ、市川家中興の祖として位置付けられています。
八代目市川團十郎
文政6年(1823)、七代目市川團十郎の長男として誕生。天保3年(1832)、わずか10歳にして八代目團十郎を襲名する。父が江戸追放となり、若くして江戸歌舞伎界を背負うも、人気の美貌と実力を兼ね備え、父の赦免を願う親孝行な一面が伝わっている。
嘉永7年(1854)7月28日、道頓堀へ入る際には、賑々しく船乗り込みが行われ、八代目團十郎の名と共に、父の五代目海老蔵と弟の初代猿蔵の名がならぶ浮世絵が残っている。舟乗り込みのわずか数日後、嘉永7年8月6日、大阪の旅宿で謎の自殺を遂げている。
初代市川猿蔵
七代目團十郎の四男として大阪で生まれ、子供芝居において修行し、後に江戸へ下る。兄の八代目が自殺した折には、その代役を務める。翌年9月に21歳で病死する。
九代目市川團十郎
七代目團十郎の五男として生まれ、すぐに六代目河原崎権之助の養子となる。嘉永5年(1852)に、河原崎権十郎と名乗る。明治7年(1874)に市川家へ戻り、九代目市川團十郎を襲名する。
五代目市川團十郎
七代目團十郎の祖父。四代目市川團十郎の子。宝暦4年(1754)、父二代目松本幸四郎が、四代目團十郎を襲名したため、三代目松本幸四郎を襲名。明和7年(1770)、五代目團十郎を襲名した。