第59回企画展

【源氏の浮世絵】
2016年3月8日(火)〜2016年6月5日(日)

歌舞伎の演目のなかには、現実の事件や史実に取材した物語もありますが、そのまま上演することは幕府批判につながるため、時代設定や人物名をかえるなどの脚色が行われました。
しかし、源平時代については、すでに江戸時代においても歴史として認識され、演目でもたびたび取りあげられています。

そこで、今回の展示では、“源氏”にまつわる演目に注目します。源氏と平氏の合戦から、江戸時代にすでに人気が高かった『義経千本桜』まで、浮世絵でご覧ください。
国広 画「義経千本桜」
国広 画「義経千本桜」


源氏の由緒と源平合戦まで
源氏とは、皇族が臣籍降下する際に用いられた氏で、祖とする天皇により多くの流れがあります。今回の展示で注目する源氏は、清和天皇の皇子経基王を起源とする“清和源氏”の流れをくむ武士たちです。歌舞伎における源氏の世界観は、主に保元平治の乱から源平合戦までの源氏と平氏の争いと、義経を中心とする物語です。

後の鎌倉幕府初代将軍頼朝の父義朝は、平治の乱(1159年)において平清盛との戦いにやぶれ、頼朝は伊豆へ流罪となります。その後、平氏の権力に反感を持つものが現れ、俊寛が流罪となる鹿ヶ谷事件(1177年)や頼政も挙兵した以仁王の乱(1180年)などがおこり、次第に平氏滅亡への序章がはじまります。

芝居のなかでは、史実を背景に、登場人物たちの主従の忠誠や親子の葛藤などの心情が豊かに語られます。

平清盛とその末裔
平治の乱(1159年)に勝利した平清盛は太政大臣にまでのぼりつめ、平氏は全盛期をむかえます。『平家物語』に「平家にあらずんば人に非ず」とも記され、栄華をきわめます。その様子は、『四海平清盛』にもみることができます。

「驕る平家は久しからず」のとおり平氏は滅亡しますが、歌舞伎では弱者に肩入れする“判官贔屓”な演目も多く、平氏の武将が実は生きていたという設定もみられます。

源平合戦
以仁王の乱の後、頼朝は挙兵(1180年)。都の治安を乱した義仲を、梶原景季らが先陣を争った宇治川の合戦(1184年)ののち追いつめ、平家追討へと動き出します。一の谷の戦い(1184年)では、義経の奇襲により平氏は海へ敗走。まだ若い平敦盛を熊谷直実が討ちとる逸話は、『一谷嫩軍記』に組み込まれ、実は後白河院の御落胤である敦盛を義経の命により直実の子を身代わりに助けるという物語となっています。

その後、壇ノ浦の戦い(1185年)において、平氏一門は海へ身を投げ滅亡にいたります。平氏が擁した安徳天皇の母建礼門院や弟の守貞親王らは救出、都へと連れ戻した義経は、後白河院から恩賞を得ます。これを期に、頼朝と義経の不和が表面化していきます。

『義経千本桜』と義経の運命
平氏の滅亡に大きく貢献した義経でしたが、許可無く官位を得たため頼朝の怒りをかうことになります。義経は平宗盛親子を鎌倉へ護送し、腰越(現在の鎌倉市)から頼朝へ逆心の無い旨を綴った“腰越状”を送ったとされていますが、結局都へ引き返します。

その後、頼朝は義経討伐に乗り出し、義経は一時吉野へ身を隠しますが、ほどなく都を追われます。『義経千本桜』において、愛妾静御前と狐忠信が義経と落ち合う“川連法眼館”は、吉野が舞台となっています。

都をはなれた義経一行は、『勧進帳』では安宅の関の物語となり、藤原秀衡をたよって奥州へ落ちのびていきます。しかし、秀衡の子泰衡に襲われ、義経は自害(1189年)しました。

番外編 源氏絵
浮世絵における源氏には、頼朝や義経たち武士だけでなく、『源氏物語』の“光源氏”もあげられます。江戸時代においてすでに古典文学となっていた『源氏物語』ですが、天保期(1830〜44)に源氏物語を翻案した小説『偐紫田舎源氏』が刊行され、歌川国貞によって描かれた挿絵とともに人気を博しました。

この「源氏」人気から、多くの浮世絵師たちによって、江戸時代の風俗からなる「源氏絵」が手がけられました。


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