上方の浮世絵について

上方浮世絵は、江戸時代後半から明治時代初期まで、おもに大坂で作られていた浮世絵版画で、美人画や風景画は少なく道頓堀歌舞伎芝居を描いた役者絵がほとんどです。
江戸の役者絵で有名な豊国や国貞らとは異なり役者を美化せず、人間味を持って描く特徴があります。
海外では「OSAKA PRINTS」として、大英博物館えおはじめ世界各地の美術館に収蔵されています。

上方浮世絵の始まり
浮世絵というと「広重の東海道五十三次」「北斎の富士」「写楽の役者絵」そして「歌麿の美人」を思い浮かべることでしょう。
このようなフルカラー印刷された木版画(錦絵)は、1765年に江戸で発明され、またたく間に江戸中に広まりました。それは、庶民が得られるようになった初めてのフルカラーの絵画でした。
それから四半世紀後、浮世絵は黄金期を迎えます。そして歌麿や北斎・写楽が活躍する直前の1791年、上方(京都・大坂)でも浮世絵版画、上方浮世絵が作られるようになったのです。

肉筆の浮世絵は、安土・桃山時代に上方で生まれました。四条河原の図や洛中洛外図などがよく知られています。
それまでの貴族や上級武士ではなく、商業で力を得た町衆の文化として生まれ、育まれました。
一方、フルカラーの浮世絵版画は、江戸時代がもたらした平和の中で、ごく普通の一般庶民が買って楽しめる文化として広く受け入れられていったのです。

上方浮世絵の特徴
上方浮世絵は、大半が役者絵であり、江戸浮世絵のように美人画や名所絵はほとんど見られません。上方には、絵画は肉筆であり、上流階級が楽しむものという伝統文化があったのでしょう。何とか役者浮世絵は受け入れられましたが、美人画は依然肉筆が主流だったようです。

もう一つの特徴は、天保の改革(1843〜47年)で中断された後に作成された浮世絵がそれまでの大判(B4サイズ)ではなく半分の中判(B5サイズ)になったことです。場合によっては金・銀・銅粉までも使い、小さくなった画面に緊張感を凝集することで、浮世絵に新たな命が吹き込まれたようにさえ思われます。

海外での評価
視線の強い上方浮世絵は、実のところ海外では「Osaka Prints」として結構人気があります。英国のビクトリア・アルバート美術館、ベルギー王立美術館、ジェノバ東洋美術館など、世界の名だたる美術館のコレクションにもなっており、また個人コレクターも多数いるのです。

右は、大英博物館所蔵と同じ
「妹背山婦女庭訓 北洲画 1821年作」
(当館所蔵品)です。

加えて、印象派の巨匠ビンセント・ファン・ゴッホの集めた400枚もの浮世絵の中にも、5枚の上方絵があるのです。もしかすると、ゴッホの作風に上方浮世絵が影響していたかもしれないのです。

江戸浮世絵との違い
同じ役者絵でも、江戸と上方では大きな違いがあります。
上方浮世絵の特徴は、江戸浮世絵のように華美ではなく、粘っこい線でありのままを描くところです。加えて、視線が強く、それが構図の一部になっているのも特徴のひとつです。

これは東西の文化の違いでしょう。体裁を重んじる江戸と、花より団子、つまり実を重んじる上方。役者はあくまでも格好良くの「江戸」と、素顔で公演後の舞台挨拶に立つ「上方」。役者を虚飾された世界に置いて楽しむ「江戸」と、生身の人間として尊敬する「上方」。このような根本的な文化の違いが、浮世絵の世界にも明瞭に現れています。

ちなみに、写楽の当時の記録に「あまりに真を書かんとて・・・」とあることから、上方出身者ではないかという説があります。実は上方錦絵の祖、流光斎(写楽と同時期に活躍)の浮世絵は、写楽の絵にとても良く似ているのです。