【旅する芝居の楽しみ】
第86回企画展 2023年5月30日(火)〜8月27日(日)
上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で出版されていた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、主に道頓堀で上演される歌舞伎芝居を描いたもので、役者絵がほとんどを占めています。
江戸時代の道頓堀は、歌舞伎や人形浄瑠璃などの芝居小屋のほか、芝居茶屋などが立ち並ぶ娯楽の町として、多くの観客で賑わう場所でした。江戸時代後半には「伊勢参り」をはじめとする「旅」が盛んとなりましたが、多くの人々にとっては、まだまだ手の届かないあこがれの「旅」。なかなか「旅」に出ることのできない庶民にとって、浮世絵や歌舞伎芝居はあこがれの「旅」を疑似体験ができたことでしょう。
そこで今回の展示では、旅姿や旅立ちの場面など、旅する芝居に注目します。旅の途中、幼い頃に生き別れた親子が出会う「沼津の段」が見どころの『伊賀越乗掛合羽』の他、役者たちが旅姿でおりなす芝居を、浮世絵でどうぞご覧ください。
伊賀上野の仇討ちと伊賀越物
寛永11年(1634)に荒木又右衛門は、義弟渡辺数馬に助太刀をして、河合又五郎を討ちとった伊賀上野の仇討ちは、曽我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りとともに、三大仇討ちとして歌舞伎や人形浄瑠璃の題材となり上演されました。
実際の事件から140年ほど経た安永5年(1776)、大阪で『伊賀越乗掛合羽』が歌舞伎として上演されます。おもてむきには足利時代へと時代を移し、荒木又右衛門が唐木政右衛門、渡辺数馬を和田志津馬、河合又五郎は沢井股五郎へと名を変えられています。その後、天明3年(1783)には『伊賀越道中双六』が上演され、嘉永3年(1850)の『けいせい誉両刀』など、多くの「伊賀越物」が上演されました。
沢井股五郎に父を殺された和田志津馬は、敵討ちの許可を得て、逃げた股五郎の行方を追います。志津馬の姉婿唐木政右衛門はわざと身を持ち崩し、主君の誉田内記は、政右衛門の助太刀の意を汲んで暇をあたえます。志津馬は唐木政右衛門や家来の池田孫八や石溜武助とともに股五郎を追い詰め、伊賀上野でみごと敵を討ち取りました。
沼津の段
東海道を下る呉服屋十兵衛は、老人足の平作に懇願され、荷を担ぐ仕事を頼む。平作は力仕事の体力がなく、結局十兵衛が自ら担ぐことに。道中、平作の美しい娘お米に出会い、十兵衛は平作の家へ泊まる。お米が十兵衛の持つ傷薬を盗もうとしたことから、お米が実は江戸吉原の瀬川で、薬は傷ついた夫和田志津馬のためだとわかる。
しかし、十兵衛は志津馬の敵、沢井股五郎の行方を知る立場で、さらに平作は十兵衛の生き別れの実の父であった。平作は、娘婿のために腹に刀を突き立て、死にゆく身へ股五郎の行方を教えてもらおうとする。十兵衛は家族の情から、平作と隠れて聞いているお米へ、股五郎の落ち行く先が九州相良だと明かし、旅立っていく。
旅する芝居とその姿
江戸時代、各藩の大名が江戸と国元を往復するために、街道と宿場が整います。とくに「東海道」は、十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802~09)の流行もあり、「伊勢参り」などの庶民の旅の道としても賑わいました。
その旅姿は、男性は菅笠に手甲・脚絆をつけ、振り分け荷物を持ち、女性は笠に杖、着物を裾を短く着付けて、手甲や脚絆をつけた姿が一般的で、浮世絵にも描かれています。(参考図版:貞信画「都名所写真鏡」三条大はし)
芝居のなかの旅姿は、実用的な旅姿ではありませんが、菅笠や杖のほか手甲や脚絆などが衣装に取り入れられ、旅情をかき立てる演出となっています。
大日本六十余州
江戸の浮世絵師葛飾北斎や歌川広重の風景画は、役者絵が中心の上方浮世絵にも影響を与えます。各地の地名を冠した「大日本六十余州」は、全75枚のシリーズとなっています。伊勢には「競伊勢物語」、和泉には「蘆屋道満大内鑑」というように、地名にちなんだ演目が結びつけられています。
道頓堀を中心に活躍する役者たちは、精力的に江戸の舞台や地方の芝居へと出演するため、旅をしています。二代目嵐徳三郎は、文政4年(1821)に亡くなった初代嵐橘三郎の名を襲名するため、江戸から大阪へと帰る口上を述べています。また、三代目中村歌右衛門は、三度にわたって江戸の芝居へと出演しており、地方へも盛んに旅巡業をしており、浮世絵に残されています。
人気役者になると、死出の旅にも注目が集まります。その死を追悼した「死絵」と呼ばれる浮世絵は、人気役者になるほど数多く出版されました。