第64回企画展

【芝居のなかのこどもたち】
2017年6月6日(火)〜9月3日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で制作された浮世絵を展示しています。大阪で作られた浮世絵は役者絵がおおく、道頓堀を中心に上演されていた歌舞伎に出演する役者たちが描かれています。

歌舞伎芝居に出演するのは主に大人の男性であり、女性役も男性が演じます。しかし、小さなこどもが芝居の要となる演目もあり、子役たちがかわいらしさを魅せるとともに涙をさそうけなげさを演じることもあります。

そこで、今回の展示では、芝居に登場する“こども”に注目します。まだ幼い“こども”を演じる子役たちから、親にとっては大きくなっても“こども”である親子関係まで、浮世絵をとおしてご覧ください。

戯画堂芦ゆき画『けいせい伊達抄』

戯画堂芦ゆき画『けいせい伊達抄』
乳母あさ岡/三代目尾上菊五郎・倅千松/市川市松


芝居の要のこどもたち
近年、歌舞伎役者の家に生まれたまだ幼い男の子たちの初お目見えや初舞台が多く見られ、観客を楽しませてくれています。芝居の中には“こども”が登場する演目もあり、その役は子役によって演じられます。

子役が登場する演目の多くは、その役がストーリーの要である場合が多く、おもに親と子の愛情が深く描かれます。とくに、“子別れ”や“身替り”など、親が忠義を貫くために“こども”を犠牲にするストーリーは、子役が重要な存在になっています。

江戸時代おいても、子役はこどもたちによって演じられ、浮世絵に描かれています。なかでも三代目嵐吉三郎は子役の頃より浮世絵に登場し、晩年まで描かれ続けました。


石川五右衛門と五郎市
『釜淵双級巴』では、河内国の領主が狩りでそらした矢を拾った盗賊石川五右衛門は、領主のはなった矢で母が傷ついたと偽の母をしたて、五十両を騙りとる。その金で島原の遊郭で遊び、遊女瀧川となじみ、駆け落ちして夫婦となった。ある夜、忍び込んだ家にいたのは石川五右衛門の先妻‘りつ’と倅五郎市であった。五右衛門が五十両を騙りとったため兄弟が浪人したと知り、五右衛門は五十両を返し五郎市を連れかえる。後妻の瀧川は、五郎市を母の元へ逃げ帰らせるため、わざと五郎市に辛くあたるが、瀧川の父親の訴えにより、五右衛門と五郎市は釜茹での刑に処される。

三代目嵐吉三郎(文化7年1810〜元治元年1864)
初代嵐吉三郎の長男で、二代目嵐吉三郎の兄にあたる嵐猪三郎の子にうまれる。前名を大三郎といい、文政4年(1821)に叔父の二代目から名を受け継ぎ三代目嵐吉三郎を襲名。嵐猪三郎の門人で二代目嵐吉三郎の名である橘三郎を継いだ二代目嵐璃寛(二代目橘三郎)や、三代目中村歌右衛門の後援をえて活躍する。

美男でならした叔父の二代目嵐吉三郎の血筋をひいて、三代目嵐吉三郎も男振りが良く、主に立役を得意とした。しかし、台詞が早口のうえ舞台では脇見をするなどの癖があったようである。

吉三郎には長男の鱗子、次男猪三郎、三男寅三郎と三人の子がいたが、長男が夭折し、後を追うように元治元年(1864)9月28日になくなる。


大きくなっても“こども”たち
親にとって、大人になっても“こども”は“こども”。芝居のなかでは、親子であるがゆえの葛藤が描かれます。それぞれの親子をご覧ください。

縁あって親子
幼い頃より育てた“こども”だけが子ではありません。“こども”が結婚すれば、義理の親子も誕生します。実と義理の間でゆれる心情が、芝居を盛り上げます。

役者の親子
代々歌舞伎役者の家にうまれた子は“御曹司”とよばれ、“家の芸”や “名跡”を継ぐべく、幼い頃より稽古を積んでいきます。

そのしきたりは江戸時代からすでに確立され、上方浮世絵の時代(1800年代)では、七代目市川団十郎と八代目市川団十郎親子が代表格です。浮世絵の五代目岩井半四郎には二人の実子があり、岩井松之助は五代目の次男にあたり、のちに七代目岩井半四郎を襲名します。(六代目は長男)

また“名跡”を門弟が養子となって継ぐこともあり、四代目中村歌右衛門は三代目の門弟で後に養子となっています。さらに、浮世絵の二代目片岡我童は七代目片岡仁左衛門の養子となり、後に八代目を襲名します。その傍らの二代目片岡我當もまた二代目片岡我童の養子で、没後九代目片岡仁左衛門が追贈されました。