第62回企画展

【芝居の足もと〜草履・下駄〜】
2016年12月6日(火)〜2017年3月5日(日)

大阪で作られた浮世絵は役者絵がおおく、道頓堀を中心に上演されていた歌舞伎に出演する役者たちが描かれています。

江戸時代の服装は身分などによって規律があり、歌舞伎の衣装や化粧もまた役柄によってことなります。武士か町人かあるいは既婚か未婚かなど、役者は演じる役にあわせた着物や鬘をまといつつ、当時のおしゃれやこだわりのデザインを役者絵のなかでみせてくれます。

今回の展示では、役者たちの衣装のなかでも“足もと”に注目します。現代でも和装の際には履く“草履”や“下駄”のほか、履物にまつわる演目も紹介します。当時の“足もと”のおしゃれを浮世絵でぜひご覧ください。
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芦ゆき画『けいせい品評林』 名古屋山三/二代目嵐橘三郎


草履
草履とは、藁やい草・竹の皮などを編んで作った台に鼻緒をつけて履くものです。古くは平安時代から履物として用いられ、鎌倉時代以降の武士社会においては、草履やわらじが重用され、戦乱の際にはわらじでは石などのかたいもので足を傷つけることから、“足半(あしなか)”とよばれる足先から半分のみの草履も作られました。

江戸時代には、平たく細長い形をした草履は湿地に弱く、雨や雪の日などには下駄が重用される場合もありました。そこで、草履の台を2枚3枚と重ねる重ね草履が考案され、底の高さと高級感から礼装用として定着していきます。町人は3枚、遊女は5枚や7枚と重ねられ、草履の底が層になっている様子は浮世絵にも描かれています。

また、千利休が考案したとされる雪駄は草履の裏に革をはったもので、踵に鋲を打ったものは音をならして歩くことが粋とされました。

『鏡山』ものと草履
将軍家の“大奥”を筆頭として、各大名家には “奥”があり、大名の正室や側室が居住しました。“奥”には妻たちだけでなく、“奥”を取りしきる役職御年寄を頂点に、直に大名や妻に仕える中老、御年寄や中老に仕える女中と多くの女性が集まっていました。

『けいせい双鏡山』では御年寄の局岩ふじは、“奥”の主人から信頼をされている中老の尾上が目障りで、恥をかかせようとします。岩ふじは、尾上が預かる家宝の蘭奢待(らんじゃたい)の香木を自分の草履と入れ替え、尾上が岩ふじに家宝紛失の罪をきせようと謀っているように見せかけます。岩ふじは罪をきせられたとわざと騒ぎ立て、尾上を証拠の草履で打ちつけます。あまりの辱めに尾上は自害し、尾上の女中おはつが岩ふじを敵討ちします。


脚絆とわらじ
わらじは藁草履と混同されることが多いですが、草履が鼻緒で履くものに対して、わらじはさらに踵をうける返しと紐を通す“乳(ち)”がついています。奈良時代からあるとされ、おもに労働や遠出に用いられました。

浮世絵のなかにおいても、わらじは“脚絆”とともに履かれることが多く、“手甲”とともに旅姿を表現しています。脛を守る“脚絆”は紺色が定番ですが、白は僧や巡礼の人を表し、美少年役は緋縮緬や桃色をつける場合もあります。


下駄
下駄とは、歯のついた木製の台に鼻緒をつけて履くものです。古くは農具としての田下駄に始まるとされ、平安時代には、“足駄(あしだ)”が広く使用されます。牛若丸が五条橋の上で弁慶とあらそう際に履いていたのが足駄で、歯が銀杏の葉のように広がっています。

下駄は江戸時代に発展をとげ、台も歯も一枚板から削る山下駄が広まり、その後、日和下駄と呼ばれる歯の低いものが普及します。さらには、桐をはじめとする材料、塗りや畳表を貼るなどの装飾が、下駄の種類を増やしました。歯の数も二本歯だけでなく、花魁道中をおこなう遊女の履く黒塗り三本歯の傾城下駄をはじめ、三代目中村歌右衛門も履いて舞った一本歯とさまざまです。

ほかにも、三代目中村歌右衛門もが用いてその名がついた“芝翫下駄”や“半四郎下駄”など役者の名がついた下駄も登場します。雨の日の履物であった下駄はしだいにファッションアイテムへとなっていきました。

『伽羅先代萩』と下駄
『伽羅先代萩』は仙台藩伊達家のお家騒動をもとに作られた演目です。実際の藩主綱宗が放蕩の末、将軍より隠居を命じられ、わずか二歳の亀千代が当主となったことから、家臣の権力あらそいが事件へと発展しました。

『伽羅先代萩』の“先代”は仙台藩を音であらわし、萩は仙台の名物として知られていました。浮世絵にえがかれた頼兼の着物の文様が“竹に雀”で、伊達家の家紋も“竹に雀”です。徳川幕府は実際の事件を脚色することを禁じていたので、設定は足利時代へとうつされていますが、露骨に暗示しています。

さらに、藩主綱宗が“伽羅”の下駄をはいて遊女高尾のもとへ通ったという俗説から、『伽羅先代萩』の外題がつけられています。“伽羅”は高価な香木。それを下駄にしたという噂が立つほど、綱宗の放蕩ぶりは桁違いだったのでしょう。


足袋
足袋は古くは“単皮(たんぴ)”とよばれ、革製で指股のないものでしたが、鼻緒のついた草履などを履くために指股がつくられるようになります。江戸時代に入って木綿製が用いられるようになり、紐で結ぶものだけでなく“こはぜ”のついた足袋も作られました。

足袋は男女ともに白色がおもに用いられますが、舞台では奴役は紫色を、茶坊主は黄色というように、役によって決まったものを履く場合があります。また、足首がみえる浅い足袋は動きやすく、粋を表しています。