第81回企画展

【江戸っ子がみた上方—歌川豊国】
第81回企画展 2022年3月1日(火)〜2022年5月29日(日)

上方浮世絵館では、江戸時代の大阪で作られた浮世絵を展示しています。大阪の浮世絵は、道頓堀で上演されていた歌舞伎に出演する役者を描いた役者絵が多いことが大きな特徴です。

江戸時代の歌舞伎は、上方と江戸の二大都市を中心に発展し、賑わっていました。上方と江戸の歌舞伎には、それぞれに興行の方法や演技の特性などがみられます。とくに江戸の豪快な「荒事」の演技と上方のやわらかな「和事」の演技は、その違いがよく比較されます。しかし東西の間では交流があり、江戸の「中村座」などへ、道頓堀を拠点として上方を中心に活躍していた役者たちも出演しました。そしてその様子は江戸の浮世絵師たちによって描かれています。

そこで今回の展示では、江戸の浮世絵師「歌川豊国」がとらえた上方の役者たちを展示します。道頓堀を代表する三代目中村歌右衛門らが、豊国にどのように描かれたかに注目します。あわせて、道頓堀の芝居へ出演する江戸の役者たちが、大阪の絵師たちにどのように描かれたかにも注目します。東西の絵師たちの描き方の違いを、どうぞ比較してご覧ください。

歌川 豊国 画 『菅原伝授手習鑑』
三代目中村歌右衛門(梅王丸)
文化8年(1811)中村座


初代歌川豊国1769-1825とは
江戸・芝の人形師の子として生まれ、歌川派を創始した浮世絵師歌川豊春に入門する。美人画や浮絵(遠近法を取り入れた浮世絵)に優れた師のもとで学んだ豊国は、はじめは歌麿や清長らの作風にも影響を受けたが、挿絵など幅広く手がけていく。寛政6年(1794)に刊行された『役者舞台之姿絵』シリーズが出世作となり、江戸の人気浮世絵師となる。

同時期には、わずか一年足らずの間に約140枚を残した東洲斎写楽の存在もあった。あまりに真を画かんとした写楽の強烈な役者絵に対し、豊国の役者絵は洗練されたモダンな江戸の粋を感じさせ、以後の浮世絵界を席巻していった。今回おもに展示している文化期の豊国は、作風がマンネリ化していると評されることも多いが、役者たちの生き生きとした演技が浮世絵に表現されている。

豊国に代表される歌川派のすっきりとした江戸風に対し、大阪の浮世絵は粘り気があるとされる。役者たちそれぞれに個性や表現があるように、豊国の江戸前のかっこよさ良さがあってこそ、大阪の浮世絵の個性も際立つといえるだろう。

三代目中村歌右衛門1778-1838
初代中村歌右衛門の実子。天明8年(1788)10歳のとき加賀屋福之助の名で初舞台。寛政3年(1791)父初代歌右衛門(当時は歌七)の死後、歌右衛門を襲名。文化文政期(1804-30)の大阪歌舞伎界の名優となる。立ち役をはじめ女方・舞踊など幅広い役柄を得意とした。

文化5年(1808)には、はじめて江戸の中村座へ出演、大当り大入りとなった。大阪と江戸を三度に渡り行き来し、江戸の歌舞伎界にも影響を与え、東西の浮世絵に数多く描かれる。
歌右衛門は容貌には恵まれなかったと伝えられるが、豊国の描く歌右衛門は体格も良く、共演の三代目坂東三津五郎と同様に鋭い眼差しとなっている。

初代市川蝦十郎1777-1827
上方の名優四代目市川団蔵に入門し、市川市蔵の名で寛政1年に初舞台。子供芝居や中芝居で修行の後、文化3年ごろより大芝居で活躍。文化6年(1809)に江戸へ向かい、評判を得ていった。文化12年、歌右衛門の紹介で市川団十郎門へ入り、鰕十郎の名を襲名。歌右衛門と同道して大阪へ戻ると、大阪でも人気を不動のものにする。

豊国によって描かれた姿は舞台の鋭さや、すらりとした格好の良さが目立つ。対して大阪の絵師にはスッキリとした目元や、鍛えられた体つきに描かれているが、顔が大きく派手な動きをとらえる描き方は、江戸絵の軽やかさに比べて、ねばりのある描き方といえる。

三代目中村松江1786-1855
市川熊太郎の名で子供芝居での修行の後、文化9年(1812)三代目中村歌右衛門の門下となり、名を中村三光と改める。文化10年には江戸へ向かい「中村座」へ出演し、三代目中村松江を襲名。江戸にて活躍し、文化14年に大阪へ戻ると、文政5年(1822)に再度「中村座」に出演するが、一年ほどで大阪へ戻っている。

天保4年(1833)には二代目中村富十郎を襲名。大阪歌舞伎界随一の女形役者となる。天保の改革の際には、奢侈禁令に触れたことから大阪を追放され、堺を拠点とする。嘉永6年(1853)には、再び江戸へ向かい市村座へ出勤している。

豊国による松江の姿は若々しく、少しつりあがった目がみずみずしく描かれている。対して、大阪の絵師による松江の方は、切長の二重瞼をはっきり表現している。

三代目坂東三津五郎1775-1831
初代坂東三津五郎の実子。寛政11年(1799)に襲名。文化文政期を代表する江戸の歌舞伎役者。幅広い役柄を得意とし、とくに“変化舞踊”というジャンルを開拓。江戸でも活躍した三代目歌右衛門とはライバルとして、どちらが“変化舞踊”で何役できるかを競い合っている。

三代目尾上菊五郎1784-1849
初代尾上菊五郎の門人。文化11年(1814)に三代目尾上梅幸、翌年に三代目尾上菊五郎を襲名。文化文政期を代表する江戸の歌舞伎役者。自他共に認める美男であったと伝えられている。文政8年に初演した『東海道四谷怪談』は大当たりし、翌年には道頓堀「角の芝居」で上演、大当たりとなった。嘉永元年(1848)にも、大川橋蔵と改名し、大阪の舞台に戻ってきた。

五代目岩井半四郎1776-1847
四代目岩井半四郎の実子。文化元年(1801)に五代目岩井半四郎を襲名。文化文政期を代表する江戸の歌舞伎役者。容姿に恵まれた愛嬌のある表情とともに、『お染久松色読販』で娘から悪婆まで七役を演じる多彩な演技から、江戸の人気女形であった。文政3年(1820)には、五代目松本幸四郎や三代目坂東三津五郎と共に大阪の舞台に立っている。

五代目松本幸四郎1764-1838
四代目松本幸四郎を父にもち、明和7年(1770)に市川純蔵の名で初舞台。安永元年(1772)に三代 目市川高麗蔵を襲名。子役から若衆方へすすみ、天明3年ごろより立役となり、和事から次第に実 悪として評判を得ていく。

享和元年(1801)に五代目松本幸四郎を襲名。文政3年(1820)には、大阪の舞台へ登場し、文政4年には『萩先代名松本』や『侠詞花川戸』などへ出演。道頓堀中の芝居や京都の芝居の舞台をつとめ た。天保元年(1830)に再び来阪し、『助六由縁江戸桜』の意休役など、京阪の舞台へ出演。江戸だけでなく、上方の歌舞伎芝居においても人気を得ている。

五代目幸四郎は“ 鼻高幸四郎 ”の異名をもち、その際立った特徴は浮世絵にも強調して描かれている。すごみのある容姿は、『伽羅先代萩』の仁木弾正などを当たり役にした。当時では高齢であった70歳を超えても舞台へ立ち、天保9年5月、舞台へ出演中に倒れて亡くなっている。